- 黒田官兵衛については、「天才軍師」「秀吉や家康も恐れた」「築城の名人」など様々な評価が今もあります。
- NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」が終了したので、改めて歴史家の講演からその知見を覗いてみました。
1.軍師
- まず「軍師」という職業はありませんでした。秀吉の時代に前線と後方支援がやっと分化したくらいです。参謀、傭兵管理などの業務が成立したのは近代に入ってからです。
- 江戸時代に侍が机上で軍事的知識習得する上での軍学があり、軍師が形成されたそうです。
- 軍師として一番有名なのがNHK大河ドラマにもなった「山本勘助」(甲州流軍学)です。
- 官兵衛の軍師像は吉川英治の「黒田如水」と司馬遼太郎の「播磨灘物語」の小説が、定着させる役割を果たしたのです。
2.官兵衛の役割
- 黒田家の出自は宇多源氏佐々木氏の流れを汲む説と播磨国黒田庄の説があるが、史実としての判断は困難です。
- 御着を本拠地とする小寺氏に祖父が仕え、簡素な姫路出城を任されました。官兵衛は1546年(天文15年)誕生しました。信長、秀吉は10~12年年上。家康と同世代。石田三成、加藤清正よりも15歳位年上です。子供は2人の男子のみで、側室は生涯持たなかったようです。
- 当時の播磨国は小豪族がひしめき、地元の勢力だけでは国の安定は難しく、そこで毛利氏に頼るか、新興の織田氏を頼るかの判断の必要性に迫られていたのです。
- 商業にも通じていた官兵衛の父が諸情報から織田氏に付くべしの判断を下したのです。そして、官兵衛を使者として各地に派遣、説得したのです。信長には中国派兵を要請し、毛利攻略の秀吉軍に自らの本拠地を提供しました。
3.謀反と官兵衛
- 天正6年(1578年)摂津国の荒木村重が信長に謀反をおこします。官兵衛は説諭に失敗して荒木氏の有岡城内に幽閉され、その消息が不明となります。
- 村重に関与したうわさが流れて窮地に陥ります。しかし、黒田家家臣は織田家に忠誠を誓い、危機を逃れました。下剋上の時代、家臣のこの団結、結束は黒田家発展の礎になります。
- なお、毛利に寝返った本家の小寺氏や荒木氏の一族を庇護した美談も多くあります。
4.西国平定
- 官兵衛が毛利氏との交渉役として目立ちますが、蜂須賀小六と共に努めたのです。また、四国平定でも小六と行動を共にして、転戦しました。
- 九州平定は同盟国となった毛利氏を引き出し、秀吉の命令で動くようなことに貢献しました。
- 秀吉は官兵衛を恐れて遠方(福岡県)の小大名(12万石)にしたと云われますが、これは間違いです。九州全体をにらみ、四国の蜂須賀氏と毛利を挟む要衡の地なのです。
- 本能寺の変の翌年キリシタンになったようです。当時は神仏を破壊しようとする宣教師追放令が出たのですが、入信は容認されたと解釈されています。
- そして、1589年(天正17年)、43歳の官兵衛は家督を長男長政に譲りました。秀吉の側近として仕える道を選んだとも考えられています。
5.その後の官兵衛
- 秀吉の北条攻めでの和平交渉役を務め、無血開城に貢献したと云われていますが、史料的ウラ付けはありません。既に名声があるので北条氏の面目のための儀礼的選出だろうと云っています。
- 関東平定後、秀吉の奥羽平定に同行しなかったことは、軍師説を疑う有力な根拠だと云っています。
- 築城の名手については西日本を中心に普請にかかわったとされていますが、その史料的ウラ付けはありません。
- 朝鮮出兵には、子の長政が参戦しています。ただ、文禄の役、慶長の役共、官兵衛は渡海したようです。
- 秀吉の死後、混乱する情勢の中、関ヶ原合戦で長政は東軍に就きました。一方、官兵衛は九州の西軍の切り崩しに力を尽くします。
- 一説には官兵衛が九州制圧後、天下を狙ったが、関ヶ原が一日で決したためやむなく隠居生活を楽しんだとあります。大河ドラマもこれを採りました。しかし、これも史実とは考えられないと云っています。
- 晩年の官兵衛は茶花道、和歌など文化的で穏やかな日々を過ごしており、1604年(慶長9年)京都伏見で亡くなりました。(享年59歳)
- 私は竹中半兵衛の後をうけ、秀吉の天下取りとなる中国大返しまでくらいしか知りませんでしたが、戦国武将だけにいろんな活躍や逸話が残されていることが分かりました。